書名:スモール・イズ・ビューティフル
著者:エルンスト・フリードリヒ・シューマッハー
出版:講談社学術文庫
発行日:1986年4月10日
化石燃料を使い続ける経済成長に警鐘を鳴らし、さまざまな問題に言及した書です。
35年も前の古い本だけれど、今の時代に当てはまること多々。
色々と刺さるところがあったのですが、特に「経済性」と「労働」について考えさせられました。
現代のシステムにずっと違和感があったんですよね。
まず「経済性」の違和感
経済性が全ての物事に適用できる物差しとされていると感じる。
効率、最適化、生産性。
考えてみればそれらの基準は経済的かどうかだけれど、果たして正しいのか?
経済性は価値基準のひとつのはず。
本書で挙げられる例は原子力発電所。
CO2削減と発電能力を考えると、経済性は良いかもしれない。
致死性のリスクさえ費用対効果の経済問題として織り込まれている。
身近で例えるとファッションでいうユニクロ。
ほどよく時流に乗ったデザイン・機能性・耐久性等々とプライスを比較すれば、最もコスパが高いと思われる。
しかし、もっと尖ったデザインを求める人もいれば、ウイグル綿を使い続けるのは論外という倫理を求める人もいるだろう。
経済性は、全てを包括するような基準ではない。
だというのに、一次資源からサービスまで、貨幣という同一基準で簡単に比較されてしまう。
そりゃあ、様々な価値が見失われますわな。
個人的に、コスパという単語が嫌いです。
大体の場合、「低コスト」ありきで正しく評価していないと思う。
しかし経済的なほうが暮らしやすいから難しいところ。
どうしたって安価ですぐ解決できる方法を探すよね。100均とか。
経済性に逆らうには経済力が要るというジレンマ。。。
続いて「労働」の問題
雇う側は、経費削減と品質管理のために人による労働を減らしたい。
雇われる側は、楽して稼ぐことを求めて労働を減らしたい。
それが噛み合ってしまって、総体として労働節約に向かう。
生産的な労働は忌避すべきものではないはずなのに。
生産過程がコマ切れの雑用になってしまった。
仕事の喜びが失われ、生きがいを余暇に求める。
その社会的な余剰が文化発展に繋がるというのはあるけれど、多数はただの浪費かな。
さらに労働節約の生産システムは規模やコストが大きすぎて手を出せない。
結果、資金を持つものがさらに富むという構造。
労働節約だから雇用もあまり増えず、格差は広がっていくと。
まぁ基本が資本主義ゆえ、資本を持つものが強くなっていくのは確かなのですが。
システムを回す側になるか、その部品になるかの二択。
そう書いてしまうと、どっちもつまらん。。。
ガンジーが提唱したという、「大量生産ではなく、大衆による生産」
それを実現するには程よいコストの生産技術。
例えばクワより便利で、コンバインほど高価でないもの。
「技術が生活様式を作る」という表現は深いな。
他にもエネルギー問題や組織論等、「普通」だけど違和感がある事例が多々挙げられていて考え込んでしまいます。
ただモヤモヤするけど、答えに至らない。
現代のシステムに違和感があるけれど、システムに迎合するのが一番ラクだよなあ。
それにシステムに依存しなかったとして、システムが破綻したときに自分だけ無事でも意味あるかというと。。。
どうしても堂々巡り。
もっと思考の体操が必要だ。
なんというか、「ちょうどいい生き方」ってどこにあるのだろうか。